サンダルウッドの丘の家より ♯7 / 山崎美弥子
美弥子さんが初めてハワイの地を踏んだ時から、モロカイ島で住まいを構えるまでを振り返りながら、2007年から10年間、家族で暮らした家「サンダルウッドの丘の家」での日々、長女の誕生から7歳になるまでが綴られています。
第三章・二 この星を愛する/カラ二とホヌア
真っ赤なドレスのカーディナルが、わたしたちのラナイにふいに舞い降りた淡い色の朝のこと。 小さなきらかいが言いました。まだ夢から覚めない妹を、柔らかいカーテンの向こう側にそっと眠らせたまま。
「まま、ほらみて、あかいとりがきたよ。わたしとりのだすおとがすき。」
「鳥の出す音じゃなくて、鳥の鳴き声というのよ。」
「なきごえ?でもたまちゃんのなきごえはすきじゃない。かなしいから。」
「その泣き声とは違うの。鳥の鳴き声は、囀り(さえずり)というの。」
「さいずり?」
「さえずりよ。」
「さ え ず り…。」
「そうよ、さえずりよ。」
日本語を知るひとが、片手でも余るほどのこの島で、母親の母国語を、母が日々語る言葉だけを頼りに覚えて育つわたしの娘たち。言葉の中に、その民族の魂は宿る。かつてのハワイの人々は、先人たちから受け継いで来たいのちである大切な言葉を、異邦人によって一度は奪われるという、悲劇の歴史をくぐり抜けなければなりませんでした。
民族にとって言葉が失われるということは、魂を無くすことにも等しい。そんな島で生きている、だからこそ、こどもたちに伝えたい、その深い思い。「わたしの言葉」を、娘たちが理解できるように。わたしの母の言葉を、わたしの父の言葉を。そしてわたしの祖父母たちの。祖父母たちの、その父母たちの言葉を。
この島の最東端、ハワイ文明発祥の聖地ハラヴァの谷で、いにしえの大切な教えを今も語り継いでいる偉大なるクム、アナカラ・ピリポ・ソラトリオ。時折、ウクレレをおもむろに抱き、そのストリングスを皺だらけの指で優しく撫でながら、 それはやさしい歌を披露してくれる無邪気な師。 気づかぬうちに自分の体に入ってしまっていた、まるで固いポハク(石)のようなその力(こだわり)を、ふうっと溶かし、指先までじんわりあたためてくれる、そんな歌声…。そう、彼がわたしたちに語り聞かせてくれたモオレロ(話)。それは彼がこどものころ、オレロ・ハワイ(ハワイ語)を禁じられた時代も、ハラヴァの谷の人々は彼らの言葉を使うことを決してやめはしなかったということ。
舗装された道など無かった、ローシェンナ色のダート・ロードの終わりの終わり、町から二十七マイルも離れたこの谷だったからこそ、守ることができたのだと。 オレロ・ハワイ(ハワイ語)が、この谷で密やかに使われていることを知られてはならない訪問者がある時には、すぐに察知してみな口を噤んだ。そのようにして守りぬいたいのちの言葉であること…。
わたしの語る日本語が、その言葉に宿る民族の魂が、遠い遠い過ぎ去った時代の日本人たちから、日々、ひとこと、ひとこと、伝えられて紡がれて来たものであること。波打ち際に寄せてはかえすその波が、 遥かなる時から終わることなく続いてきたように。 果ても無く、遠く遠く。そうしてこれからも続いてゆくように。決して途切れてしまうことなど無いように。
予告も無く、夜深い漆黒の時刻や、朝日の昇る少し前の梔子色(くちなしいろ)の前触れ時分に、わたしのこころのあたたかな真ん中から、こみあげては湧き溢れる「プレ(祈り)」。それはこの世界のすべてのすべてが愛おしく、そのすべてを抱きしめたい思い。そして、この星の上で繰り広げられる、ありとあらゆるすべてのすべてが、まぎれもないかりそめであることの、切なさとかけがえの無さ。あたりまえの日々に満ち満ちた幸福と、わたしの両腕の内側にちくちくと感じる、愛するがゆえの気高き寂しさ。
今朝もまた、わたしたちに会いに来たカーディナル。鮮やかな翼が一段と映える。マットな白花色に塗られた木製の手すりを止まり木にして。今日という、またとはやっては来ない、なんでもないありきたりの日。目を閉じて、そのきらめきをどうにかしてとどめたいと願うプレ(祈り)…。尾羽は、小さな赤ドレスのロングトレーン。 声高い囀り(さえずり)は突然に飛び立つ。滲んだ青い水平線を目指したその赤は、途中で空色に溶け消えて、見えなくなるほどに。 わたしと、幼いこの子らに眩しい光のまたたきだけを残して。
山崎美弥子
1969年東京生まれ。
多摩美術大学卒業後、東京を拠点にアーティストとして活動。
一転し、2004年より船上生活を始める。のち、ハワイ・モロカイ島のサンダルウッドの丘に家を建てる。
現在は東に数マイル移動し、「島の天国131番地」と呼ぶその家で、心理学者の夫と二人の娘、馬や犬たちと、海と空や花を絵描きながら暮らしている。