満てる ♯1 / 編集部
はじめに
去年の春先、まだ暖かくなる前、大切な友人の友人が亡くなりました。
それまでも、身近な人の死を経験したことがなかったわけではありません。
けれど、その人の死は、彼が寿命として納得するには若すぎる年齢的だったこと、病気を抱えながらも元気に生きている姿を知っていたことで、私にとって死は生々しく迫ってくる特別な体験になったのです。
私は、亡くなった彼に、自分を重ねました。
大好きだった人たちのことを悲しませたくなかっただろうな。
病状が悪化してからは、自分の死後のあれこれを予想して、でも何も対処できなくて苦しかっただろうか。
治療に気持ちが専念できないぐらい、心配ごとがあったのではないかしら。
そして、もしかしたらもしかして、死んでしまったら楽になると思った瞬間があったのではなかろうか。
そんなことを思ううちに、自分はその時が来たときに、どのように死に向き合うのだろうかと、ぼんやりと考えるようになりました。

版画/本間尚子 Shoko Honma
祖父が亡くなった時、私はまだ大学生で、祖父はいわゆる平均寿命からそんなに離れていなかったので、悲しいという気持ちはあっても、理不尽さはありませんでした。
20代半ばに、友人が急な病気でなくなったときは、理不尽ではあったけれど、死と自分の距離が遠すぎて、自分ごととして捉えることはありませんでした。
そして今、37歳。
白髪がちらほらと出てくるようになりました。
生まれつき髪の色が明るいので目立たなかっただけで、おそらく少し前からあったのでしょう。
以前は平気でできたこと、例えば、朝まで飲んでそのまま仕事に行くなんてことは、もう絶対にできなくなりました。
私は “まだ” 30代で、十分に若く健康ではあるけれど、生物学的な成長は終わっていて、体はゆっくりと、でも確実に「死」の方向に向かって歩みつつあります。
彼の死から一年以上が経ち、件の友人から「満てる(みてる)」ということばを教わりました。
高知のことばで、「人生が満ちる」、人が死ぬことをいうそうです。
初めてこのことばを聞いたとき、ときが満ちて、大きな存在に還ってゆく。そんなイメージが頭の中に広がりました。
死について考えることは、生について考えること。
終了ではなくて満了ならば、死は必ずしもネガティブではありません。
死という一点に目を向けて、怯えたり抗ったりするのではなく、死が人生の満了の時になるように。
こころとからだの最終地点を目指す探す旅をはじめます。
★不定期のリレー連載です。
日高しゅう
1981年生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒。
イタリア・フェラーラ大学にて、中世美術史を学ぶ。
アロマテラピー業界およびIT企業で広報として勤務後、2017年、語学と文化を学ぶため、ハワイに留学。ハワイ島のロコからハワイ語を学ぶ。
ハワイ各地を旅し、帰国後、つるやとともに『Hōʻailona』を立ち上げる。
入門者向けのハワイ語講座講師としても活動。